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院長の経歴STAFF

院長の生い立ちから
現在まで

院長がこれまでに歩んできた
道のりをご紹介します

History 01

幼少期

1962年12月生まれ。
家は嬉野町川原木造という40軒ばかりのすごく小さい集落にありました。
父は、家業のつぶれかけた醤油屋を営んでいました。

父は東京の大学時代、本当は研究者として大学に残りたかったようなのですが、祖父の体調が悪くなり、やむなく戻って家業を継ぐことになったようです。ですから理系の研究者肌で商売には向いていなかったようです。

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戦前はそれでもその地区の旧家で地主でしたが、父が家業を継いだ頃には家業はどんどん傾いていきました。

子供心にも、あんまり売れてないのにどうやって食べていっているんだろうと思ったものです。

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History 02

小学生時代

小学生ぐらいからは、母も働きに出ていました。
生命保険の調査士として働き、その収入もありなんとかやっていっていたみたいです。

しかし、父と母はよく喧嘩をしていて、原因の一番は父の仕事の赤字を母が補填していることによるものでした。
当時は本当にいつ離婚ということになるのだろうと心配したものでした。

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小学生の頃は学校が終わると近くの川で魚とりや魚釣り、夏にはカブトムシを取りに行ったりと、日が暮れるまで外で遊んでいました。

今と違い塾などもなく、当時の標準的な小学生でした。
幼稚園から小学6年生まで7年間ひとクラスでほとんど人の出入りもなく、のほほんとしたアットホームな小学生時代でした。

小6の時、岐阜から転校生がきて、受験をすると騒ぎました。
そこではじめて中学受験なるものがあることを知り、少し受験勉強なるものをして中学受験をしました。
運よく高田中学に合格して中学生活をスタートしました。

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History 03

中学時代

中学校は、津市の私立高田中学校の3年制コースに通いました。当時の高田中学は男子は丸坊主でした。
中学では軟式テニス部に入りましたが1年半ぐらいで挫折、ようはあまり運動神経がよくなく、うまくなれずに辞めてしまいました。
以降は帰宅部、その後高校受験。
当時は学校群で一志郡は2群、3群、松阪高校と受験する選択肢は広かったのですが。
友達が一番多くいる2群を受験して振り分けの結果、津西高校に入学しました。

History 04

高校時代

高校時代は3年間ワンダーフォーゲル部に所属して部長も経験しました。鈴鹿山脈を中心に大杉谷や日本アルプスも行きました。普段の練習はリュックに20~30キロの重りを入れて学校の外階段を歩いたり、運動場の周りのサーキットコースを走ったりの地味なものでした。
制服がなかったこともあり好奇心も働きタバコやお酒、マージャンといったちょっと悪ぶったこともしていました。

そんなこともあり、国立の医学部に合格確実といわれていたにもかかわらず、大学受験には見事失敗。
浪人生活をすることになりました。

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History 05

浪人時代

浪人時代は名古屋の河合塾で寮生活。親元を離れての初めての一人暮らし、これがいけなかった。
もともと意思の強い人間ではなく、すぐ流されてしまう弱い人間で、当時はそんなこともあまりわかっていませんでした。

寮は東大京大医進の理系クラスだったけど、寮の中に中学の同級生のW君、その高校の友人のYくんやKくん。半個室で衝立はあるものの2人一部屋、同室になった福岡のOくんや豊橋のHくんなどすぐに遊び友達が出来てしまい、だんだん歩いて数分の塾が遠のいていきました。まったく今思うと親不孝な話ですが、当時は青春真っ盛りというかバカ真っ盛りでした。

さらに多年生もいて河合塾の運動会に寮で応援団を組織して応援団の練習をしたり、いままでのマージャンやお酒に加えてパチンコも加わり成績はどんどん下降していきましたが、立て直すことも出来ずに共通一次試験。
現役時代よりも成績を落としてしまい、さすがにお先真っ暗という感じでした。

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浪人時代は家庭環境からも、何より自分の不甲斐なさからも、2浪は出来ないと私立大学も受験して早稲田の理工や東京理科大に合格でき、当時流行のようだった遺伝子工学でもやるかという感じでした。
国立の受験に際してさすがに医学部をもう一度受ける勇気もなくずっと心配してくれていた両親の、
「あなたは手先が器用なのだから歯医者はどう?」の一言で
出願直前に歯学部に志望変更し、国公立の歯学部の中で最も伝統がある福岡県立九州歯科大学に合格できました。

History 06

大学時代

大学に入ると、正確には下宿探しの頃からクラブの勧誘が激しく(サークルでなくクラブ)後から知ったのですが、当時の九州歯科大学はまだ古きよき伝統が少し残っている九州の結構バンカラ系の大学で九州酒科大学体育学部と言われていました。

大学時代はクラブ勧誘の洗礼を受けて先輩たちに飲みに連れて行ってもらっているうちに、いつのまにかバドミントン部に入っていました。バドミントン部は当時毎日3時間ほど練習をするマジな体育会のクラブでした。

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中学高校大学を通じて大学の6年間が一番クラブをやるという普通の人とはちょっと違う大学時代でした。
大学というイメージのチャラチャラした華やかな学生生活とは程遠く、クラブが生活の主体であとは大学の講義・実習・生活のためのバイトに終われる毎日でした。

当時のバドミントン部は結構強くてオールデンタル(歯学部の学生だけの全国大会)で17連覇、九州学生リーグ(1部~5部)で2部に所属、北九州インカレなど総合大学の学生との試合も多くありました。
そんなクラブなので大学時代に3度坊主にしました。
1度は前述のオールデンタルで男子が3位になった時、
1度は九州リーグで2部から3部に転落した時、
1度は北九州大学との練習試合に2日酔いでしかも集合に遅刻した時、
まったく今思うと馬鹿げた学生生活ですが当時は結構楽しんでいました。

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大学4年生の体育祭の応援団の写真です。
体育祭終了で楽しそうですが、この後、第2部の恐怖の学部まわりがはじまります。
5年生が6年生のところに行ってエールをきってお酒を飲ましていただく。4年生は6年生・5年生とまわる。
つまり1年生は6→5→4→3→2でほとんどみんなげろげろでした。

楽しかった大学時代が終わり進路を決める段になって大学院に進学する友人もたくさんいましたが、うちにはそんな余裕もなかったので大学卒業と同時に開業医に就職しました。

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History 07

勤務医時代

九州で1軒、その後三重に戻ってもう1軒務めて開業しました。

最初の歯科医院は保険診療中心で、とにかく丁寧に多くの患者様を診ることで技術を磨きました。
当時は少しでも多くの患者様をみて、早く一人前の歯科医になりたいと必死でした。
院長以下多くの先輩歯科医師がいる診療室だったのでいろいろなことを教わることができました。
でも勤務し始めたころはそのストレスから胃潰瘍になり2度ほど胃カメラも飲みました。
楽しみは週2~3回診療後に行っていたバドミントンやスポーツクラブでした。

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三重に戻って津の中嶋歯科医院に勤務しました。
それまでと一転して自費診療中心の診療室で、そこでの勤務中に大変勉強熱心だった中嶋先生からインプラントや歯周外科手術、コーヌスクローネや矯正など今に通じる多くの事を学びました。
悪くなった歯を被せ物や義歯などで治していくと本来の自分の歯より条件が悪くなります。入れた補綴物(被せ物)をずっと長持ちさせるためには、いかに精度をあげてより精密な補綴物を作製する、そして定期的なメインテナンスがいかに大切かということを学びました。

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中嶋歯科勤務時代。
後述の苦い経験の原因ともなった慰安旅行の1枚です。

また、当時の院長が所属していたスタディークラブにも所属して症例を発表して同業者の厳しい批判の目に耐えながら切磋琢磨して腕を磨いていきました。今でも中嶋歯科医院で学んだことは歯科医人生の基本になっていますし、中嶋先生には感謝してもしきれない程の御恩を受けました。

History 08

開業

開業と同時に背負ったもの

1992年9月に生まれ育った地元嬉野で開業しました。
当然ながら親からの援助もなく、すべて銀行からの借金で開業しました。

30歳そこそこで1億数千万の借金を背負い、そのストレスからか開業当初、汗が出なくなりました。もともとすごく汗かきだったのですがまったく汗が出なくなり、ジムで10キロぐらい走っても体はすごく熱くなるのに汗が出ず、肌も乾燥でかさかさになり、すごい体調不良になりました。
ストレスってこわいのだと身をもって体験しました。

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林歯科医院のオープニングスタッフです。
治療台3台・歯科衛生士1名・歯科助手2名・受付1名でスタートしました。

開業当初からの想い
  • 自分が受けたい治療、
    自分の親や子供に受けさせたい治療を患者様に提供する
  • 患者様が望めば最高の治療を提供できる体制を整える
  • 嬉野でも東京で受けるのと変わらない治療を
    提供できる技術を身につける
  • 明るく美容院感覚で来院していただける雰囲気作り
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1年後に副院長と結婚して、夫婦2人でとにかく患者様のために良い治療を提供しようという事のみを考えて、がむしゃらに頑張ってきました。

全力で走り続けた先の成長

そのためにJIADS、SJCD、くれない塾、筒井塾、CEセミナー、臨床基本ゼミ、インプラント100時間コースなど多くの日本でも名だたる研修会に参加したり、学会に所属して症例発表をしたり、また多くのスタディーグループに参加して、志を同じくするような厳しい同業者の目に自分の症例を出して批判を受けて努力をするということで成長してきました。

歯医者の世界では、勤務医時代はそこの院長の目もあるけれど、開業してしまうと学会やスタディーグループなどで発表でもしない限り、どんなレベルの治療をしていても誰の目に触れることもありません。
はっきりいって怖い話です。

だから一貫してスタディーグループに所属して発表をしたり学会で発表したり歯科の雑誌に発表をしたりと公の目に症例を出してきました。
また院内でも複数の歯科医師(2020年2月現在は7名)で、お互いにチェックをしあい、症例検討会も行い切磋琢磨しています。

おかげで現在日本口腔インプラント学会専門医・代議員・中部支部副支部長、日本歯周病学会専門医、日本臨床歯周病学会認定医、国際インプラント学会認定医、日本顎咬合学会認定医など多くの学会で認定医や専門医を取得しています。


でも実はこれには苦い経験がその原動力となっています。

  • *

    日本口腔インプラント学会の

    第31回中部支部学術大会で
    大会長を務めました

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    日本臨床歯周病学会で発表後。
    歯周病の世界的権威のリンデ先生と
    ネビンス先生との
    貴重な1枚です

歯科医師人生のターニングポイント

それはまだ中嶋歯科医院に勤務していた頃、高校の同級生のB君の紹介で来院されたHさんという患者様の症例です。
虫歯が深くて一見して保存不可能と思ったのですが、何とかその歯を残せないかと歯茎を切ったりいろいろと努力したけれど、結局残せず抜歯してしまいました。
いろいろと手を加えたのですんなりと抜くより、抜いた後で腫れや痛みが出てしまいました。
そして悪いことに丁度その後すぐ、中嶋歯科が慰安旅行で数日間休診となり、その患者様は他院に転院されました。

そこの医院で抜歯後の処置として親知らずの移植を受けて、さらにその移植した歯をMTM(小矯正)で理想的な位置に動かしてその後に冠をかぶせるという処置が施され、しかもそれが当時歯科の雑誌に掲載されました。
それを読んだ時にハンマーで頭を殴打されたような、ものすごいショックを受けました。
結果として自分が迷惑をかけた患者様が他の歯科医師によりリカバリーされて、しかもその結果が自分が考えていた結果(移植までは考えていたけれど小矯正までは考えてなかった)より良い結果であったことに打ちひしがれました。
まさに晴天の霹靂という感じです。
だからこそ技術力をあげて、2度とそのようなことがないように努力しようと誓い現在にいたっています。

最愛の父が教えてくれたこと

もう一つ歯科医人生を語る上で忘れられない出来事がありました。それは亡き父との思い出です。
子供の頃から父は厳しく怖い存在で、当然ながら中学高校時代などは思春期の反発などもあり親をないがしろにしたり無視をしたりと、いい関係ではありませんでした。
でも大学に入り親元を離れてたまにしか帰らなくなったことや、自分も少し成長して大人になったこともあり帰ったときには一緒にお酒を飲んだりと少しは関係も修復されました。
開業のときは経済的な援助はまったくなかったけれど、その他の部分では手伝ってくれ、心強い思いをしました。

そんなこともあり、開業してすぐにまず両親の歯の治療をしました。2人とも結構歯が悪くて歯周病も進行していて驚いたのを覚えています。
今まで苦労ばかりかけたので歯の治療どころではなかったのだなあと感じてすごく罪悪感にさいなまれました。
その分2人の治療は誠心誠意行いました。
治療後は2人がなくなるまでずっと定期健診で管理していきました。すごく歯周病が悪かったのですがメインテナンス(定期管理)を行っていくと歯周病や虫歯の進行を防ぎ歯は保存できます。
結局2人とも治療後は亡くなるまで1本の歯も失うことなく入れ歯にもなりませんでした。

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父が亡くなり荼毘に付した時のことです。斎場の係員の方が申し訳なさそうに「このようなことは普通ないことなのですが、お父様の大切なのど仏の骨に何かくっついて取り除くことができません」と仰ったのです。
それは僕がそれまで心配ばかりかけた父に、心を込めて作成したセラミックの歯でした。
その歯を入れた日のことをよく覚えています。父は歯科医院でも自宅に帰っても鏡を見て「きれいな歯だなあ。」と何度も繰り返し言ってくれました。厳しかった父に直接褒められた経験がほとんどなかったので、やっと少しだけ恩返しができたような気がして本当に嬉しかったです。

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翌日、父他界(享年69歳)

その思い出のセラミックの歯を亡くなるその日まで使ってくれ、あの世にも持って行ってくれようとしている。

そしてそれは突然の死だったため臨終にも立ち会えなかった父の最期のメッセージで
「一生使えるような歯をこれからも患者様に入れて差し上げることができるよう精進しなさい。」
ということではなかったかと思っています。

これからもこの父の最期のメッセージを守り歯科医療に邁進して林歯科医院に来ていただけるすべての患者様に幸福になってもらえるように頑張っていきたいと考えています。

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症例検討会では歯科医師7名で、毎日のように患者様のために真剣に議論をしています。
お互いにプロの目で厳しくチェックしあっています。情報も共有するので安心です。
2020年2月現在では、歯科医師7名、歯科衛生士12名、歯科助手10名、
受付3名、滅菌係4名のスタッフが在籍しています。
良い治療をしていくためには多くのスタッフが必要です。
みんなに感謝です。

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