STAFF

患者様に適切な
治療をご提供

院長紹介

医療法人尚志会 林歯科医院 | 院長

HISASHI HAYASHI

自分が受けたい治療家族に受けてほしい治療を患者様に

こんにちは、院長の林です。
いつも自分の身内に治療することを念頭に安全安心の歯科治療、最新で適切な歯科治療を提供できるように日々技術研鑽に明け暮れています。
趣味は仕事と公言していますが、いい治療を提供できるように休みの日もほぼ研修会に出席したりしています。
また次の世代の歯科医師を育てるため、毎日症例検討会や歯科医師勉強会を開催して若手歯科医師の育成を行っています。
仕事以外では旅行や食べ歩きが趣味で副院長とよく出かけています。

略歴

  • 福岡県立九州歯科大学 卒業(1988年)
  • 1992年林歯科医院 開設
  • 歯学博士
  • 第57回日本歯周病学会臨床ポスター
    発表・最優秀ポスター賞
    受賞

所属学会

  • 日本口腔インプラント学会
  • 日本成人矯正歯科学会
  • 日本顎咬合学会
  • 日本咬合学会
  • 日本臨床歯周病学会
  • 日本自家移植学会
  • 日本歯周病学会
  • 国際外傷歯学会会員
  • 臨床歯科を語る会
  • アメリカ歯周病学会会員
  • 日本歯科審美学会

スタディグループ

  • はまゆう会
  • 東海臨床研究会
  • みじんこ組
  • JIADSクラブ
  • 中部歯科臨床研究会
  • コンセプト21

出身地

三重県

血液型

A型

星座

いて座

患者様に一言

なるべく自分の歯で食べられるように全力を尽くします。

院長の経歴

History01

幼少期

1962年12月生まれ。
家は嬉野町川原木造という40軒ばかりのすごく小さい集落にありました。
父は、家業のつぶれかけた醤油屋を営んでいました。

父は東京の大学時代、本当は研究者として大学に残りたかったようなのですが、祖父の体調が悪くなり、やむなく戻って家業を継ぐことになったようです。ですから理系の研究者肌で商売には向いていなかったようです。

戦前はそれでもその地区の旧家で地主でしたが、父が家業を継いだ頃には家業はどんどん傾いていきました。

子ども心にも、あんまり売れてないのにどうやって食べていっているんだろうと思ったものです。

History02

小学生時代

小学生ぐらいからは、母も働きに出ていました。
生命保険の調査士として働き、その収入もありなんとかやっていっていたみたいです。

しかし、父と母はよく喧嘩をしていて、原因の一番は父の仕事の赤字を母が補填していることによるものでした。
当時は本当にいつ離婚ということになるのだろうと心配したものでした。

小学生の頃は学校が終わると近くの川で魚とりや魚釣り、夏にはカブトムシを取りに行ったりと、日が暮れるまで外で遊んでいました。

今と違い塾などもなく、当時の標準的な小学生でした。
幼稚園から小学6年生まで7年間1クラスでほとんど人の出入りもなく、のほほんとしたアットホームな小学生時代でした。

小6の時、岐阜から転校生がきて、受験をすると騒ぎました。
そこではじめて中学受験なるものがあることを知り、少し受験勉強なるものをして中学受験をしました。
運よく高田中学に合格して中学生活をスタートしました。

History03

中学時代

中学校は、津市の私立高田中学校の3年制コースに通いました。当時の高田中学は男子は丸坊主でした。
中学では軟式テニス部に入りましたが1年半ぐらいで挫折、ようはあまり運動神経がよくなく、うまくなれずに辞めてしまいました。
以降は帰宅部、その後高校受験。
当時は学校群で一志郡は2群、3群、松阪高校と受験する選択肢は広かったのですが。
友達が一番多くいる2群を受験して振り分けの結果、津西高校に入学しました。

History04

高校時代

高校時代は3年間ワンダーフォーゲル部に所属して部長も経験しました。鈴鹿山脈を中心に大杉谷や日本アルプスも行きました。普段の練習はリュックに20~30キロの重りを入れて学校の外階段を歩いたり、運動場の周りのサーキットコースを走ったりの地味なものでした。
制服がなかったこともあり好奇心も働きタバコやお酒、マージャンといったちょっと悪ぶったこともしていました。
そんなこともあり、国立の医学部に合格確実と言われていたにも関わらず、大学受験には見事失敗。
浪人生活をすることになりました。

History05

浪人時代

浪人時代は名古屋の河合塾で寮生活。親元を離れての初めての一人暮らし、これがいけなかった。
もともと意思の強い人間ではなく、すぐ流されてしまう弱い人間で、当時はそんなこともあまりわかっていませんでした。

寮は東大京大医進の理系クラスだったけど、寮の中に中学の同級生のW君、その高校の友人のY君やK君。
半個室で衝立はあるものの2人一部屋、同室になった福岡のOくんや豊橋のHくんなどすぐに遊び友達が出来てしまい、だんだん歩いて数分の塾が遠のいていきました。
まったく今思うと親不孝な話ですが、当時は青春真っ盛りというかバカ真っ盛りでした。

さらに多年生もいて河合塾の運動会に寮で応援団を組織して応援団の練習をしたり、今までのマージャンやお酒に加えて、パチンコも加わり成績はどんどん下降していきましたが、立て直すことも出来ずに共通一次試験。
現役時代よりも成績を落としてしまい、さすがにお先真っ暗という感じでした。

浪人時代は家庭環境からも、何より自分の不甲斐なさからも、2浪は出来ないと私立大学も受験して早稲田の理工や東京理科大に合格でき、当時流行のようだった遺伝子工学でもやるかという感じでした。
国立の受験に際してさすがに医学部をもう一度受ける勇気もなくずっと心配してくれていた両親の、「あなたは手先が器用なのだから歯医者はどう?」の一言で出願直前に歯学部に志望変更し、国公立の歯学部の中で最も伝統がある福岡県立九州歯科大学に合格できました。

History06

大学時代

大学に入ると、正確には下宿探しの頃からクラブの勧誘が激しく(サークルでなくクラブ)後から知ったのですが、当時の九州歯科大学はまだ古きよき伝統が少し残っている九州の結構バンカラ系の大学で、九州酒科大学体育学部と言われていました。

大学時代は、クラブ勧誘の洗礼を受けて先輩たちに飲みに連れて行ってもらっているうちに、いつのまにかバドミントン部に入っていました。バドミントン部は当時毎日3時間ほど練習をするマジな体育会のクラブでした。
中学高校大学を通じて大学の6年間が一番クラブをやるという普通の人とはちょっと違う大学時代でした。
大学というイメージのチャラチャラした華やかな学生生活とは程遠く、クラブが生活の主体であとは大学の講義・実習・生活のためのバイトに終われる毎日でした。

当時のバドミントン部は結構強くてオールデンタル(歯学部の学生だけの全国大会)で17連覇、九州学生リーグ(1部~5部)で2部に所属、北九州インカレなど総合大学の学生との試合も多くありました。
そんなクラブなので大学時代に3度坊主にしました。
1度は前述のオールデンタルで男子が3位になった時、1度は九州リーグで2部から3部に転落した時、1度は北九州大学との練習試合に2日酔いでしかも集合に遅刻した時、まったく今思うと馬鹿げた学生生活ですが当時は結構楽しんでいました。

大学4年生の体育祭の応援団の写真です。
体育祭終了で楽しそうですが、この後、第2部の恐怖の学部まわりがはじまります。
5年生が6年生のところに行ってエールをきってお酒を飲ましていただく。4年生は6年生・5年生とまわる。
つまり1年生は6→5→4→3→2でほとんどみんなげろげろでした。

楽しかった大学時代が終わり進路を決める段になって大学院に進学する友人もたくさんいましたが、うちにはそんな余裕もなかったので大学卒業と同時に開業医に就職しました。

History07

勤務医時代

九州で1軒、その後三重に戻ってもう1軒務めて開業しました。

最初の歯科医院は保険診療中心で、とにかく丁寧に多くの患者様を診ることで技術を磨きました。
当時は少しでも多くの患者様をみて、早く一人前の歯科医になりたいと必死でした。
院長以下多くの先輩歯科医師がいる診療室だったのでいろいろなことを教わることができました。
でも勤務し始めたころはそのストレスから胃潰瘍になり2度ほど胃カメラも飲みました。
楽しみは週2~3回診療後に行っていたバドミントンやスポーツクラブでした。

中嶋歯科勤務時代。
後述の苦い経験の原因ともなった慰安旅行の1枚です。

三重に戻って津の中嶋歯科医院に勤務しました。
それまでと一転して自費診療中心の診療室で、そこでの勤務中に大変勉強熱心だった中嶋先生からインプラントや歯周外科手術、コーヌスクローネや矯正など今に通じる多くのことを学びました。
悪くなった歯を被せ物や義歯などで治していくと本来の自分の歯より条件が悪くなります。入れた補綴物(被せ物)をずっと長持ちさせるためには、いかに精度をあげてより精密な補綴物を作製する、そして定期的なメインテナンスがいかに大切かということを学びました。
また、当時の院長が所属していたスタディークラブにも所属して症例を発表して同業者の厳しい批判の目に耐えながら切磋琢磨して腕を磨いていきました。
今でも中嶋歯科医院で学んだことは歯科医人生の基本になっていますし、中嶋先生には感謝してもしきれない程の御恩を受けました。

History08

開業

開業と同時に背負ったもの

林歯科医院のオープニングスタッフです。
治療台3台・歯科衛生士1名・歯科助手2名・受付1名でスタートしました。

1992年9月に生まれ育った地元嬉野で開業しました。
当然ながら親からの援助もなく、すべて銀行からの借金で開業しました。

30歳そこそこで1億数千万の借金を背負い、そのストレスからか開業当初、汗が出なくなりました。
もともとすごく汗かきだったのですがまったく汗が出なくなり、ジムで10キロぐらい走っても身体はすごく熱くなるのに汗が出ず、肌も乾燥でかさかさになり、すごい体調不良になりました。
ストレスって怖いのだと身をもって体験しました。

開業当初からの想い

1.自分が受けたい治療、自分の親や子どもに受けさせたい治療を患者様に提供する

2.患者様が望めば適切な治療を提供できる体制を整える

3.嬉野でも東京で受けるのと変わらない治療を提供できる技術を身につける

4.明るく美容院感覚で来院していただける雰囲気作り

1年後に副院長と結婚して、夫婦2人でとにかく患者様のために良い治療を提供しようということのみを考えて、がむしゃらに頑張ってきました。

全力で走り続けた先の成長

そのために、JIADS・SJCD・くれない塾・筒井塾・CEセミナー・臨床基本ゼミ、インプラント100時間コースなど多くの日本でも名だたる研修会に参加したり、学会に所属して症例発表をしたり、また多くのスタディーグループに参加して、志を同じくするような厳しい同業者の目に自分の症例を出して批判を受けて努力をするということで成長してきました。

日本口腔インプラント学会の
第31回中部支部学術大会で大会長を務めました

歯医者の世界では、勤務医時代はそこの院長の目もあるけれど、開業してしまうと学会やスタディーグループなどで発表でもしない限り、どんなレベルの治療をしていても誰の目に触れることもありません。
はっきりいって怖い話です。

だから一貫してスタディーグループに所属して発表をしたり学会で発表したり歯科の雑誌に発表をしたりと公の目に症例を出してきました。
また院内でも複数の歯科医師(2023年8月現在は10名)で、お互いにチェックをしあい、症例検討会も行い切磋琢磨しています。

日本臨床歯周病学会で発表後。
歯周病の世界的権威のリンデ先生とネビンス先生との
貴重な1枚です

おかげで現在日本口腔インプラント学会専門医・代議員・中部支部副支部長、日本歯周病学会専門医・指導医、日本臨床歯周病学会認定医・指導医、アメリカインプラント学会専門医、国際インプラント学会認定医、日本顎咬合学会認定医など多くの学会で認定医や専門医を取得しています。

でも実はこれには苦い経験がその原動力となっています。

歯科医師人生のターニングポイント

それはまだ中嶋歯科医院に勤務していた頃、高校の同級生のB君の紹介で来院されたHさんという患者様の症例です。
むし歯が深くて一見して保存不可能と思ったのですが、何とかその歯を残せないかと歯ぐきを切ったりいろいろと努力したけれど、結局残せず抜歯してしまいました。
いろいろと手を加えたのですんなりと抜くより、抜いた後で腫れや痛みが出てしまいました。
そして悪いことに丁度その後すぐ、中嶋歯科が慰安旅行で数日間休診となり、その患者様は他院に転院されました。

そこの医院で抜歯後の処置として親知らずの移植を受けて、さらにその移植した歯をMTM(小矯正)で理想的な位置に動かしてその後に冠を被せるという処置が施され、しかもそれが当時歯科の雑誌に掲載されました。
それを読んだ時にハンマーで頭を殴打されたような、ものすごいショックを受けました。
結果として自分が迷惑をかけた患者様が他の歯科医師によりリカバリーされて、しかもその結果が自分が考えていた結果(移植までは考えていたけれど小矯正までは考えてなかった)より良い結果であったことに打ちひしがれました。
まさに晴天の霹靂という感じです。
だからこそ技術力をあげて、2度とそのようなことがないように努力しようと誓い現在にいたっています。

最愛の父が教えてくれたこと

もう一つ歯科医人生を語る上で忘れられない出来事がありました。それは亡き父との思い出です。
子どもの頃から父は厳しく怖い存在で、当然ながら中学高校時代などは思春期の反発などもあり親をないがしろにしたり無視をしたりと、いい関係ではありませんでした。
でも大学に入り親元を離れてたまにしか帰らなくなったことや、自分も少し成長して大人になったこともあり帰ったときには一緒にお酒を飲んだりと少しは関係も修復されました。
開業のときは経済的な援助はまったくなかったけれど、その他の部分では手伝ってくれ、心強い思いをしました。

そんなこともあり、開業してすぐにまず両親の歯の治療をしました。2人とも結構歯が悪くて歯周病も進行していて驚いたのを覚えています。
今まで苦労ばかりかけたので歯の治療どころではなかったのだなあと感じてすごく罪悪感にさいなまれました。
その分2人の治療は誠心誠意行いました。
治療後は2人がなくなるまでずっと定期検診で管理していきました。すごく歯周病が悪かったのですがメインテナンス(定期管理)を行っていくと歯周病やむし歯の進行を防ぎ歯は保存できます。
結局2人とも治療後は亡くなるまで1本の歯も失うことなく入れ歯にもなりませんでした。

父が亡くなり荼毘に付した時のことです。斎場の係員の方が申し訳なさそうに「このようなことは普通ないことなのですが、お父様の大切なのど仏の骨に何かくっついて取り除くことができません」と仰ったのです。
それは僕がそれまで心配ばかりかけた父に、心を込めて作製したセラミックの歯でした。
その歯を入れた日のことをよく覚えています。父は歯科医院でも自宅に帰っても鏡を見て「キレイな歯だなあ」と何度も繰り返し言ってくれました。厳しかった父に直接褒められた経験がほとんどなかったので、やっと少しだけ恩返しができたような気がして本当に嬉しかったです。

その思い出のセラミックの歯を亡くなるその日まで使ってくれ、あの世にも持って行ってくれようとしている。

そしてそれは突然の死だったため臨終にも立ち会えなかった父の最期のメッセージで「一生使えるような歯をこれからも患者様に入れて差し上げることができるよう精進しなさい。」ということではなかったかと思っています。

これからもこの父の最期のメッセージを守り歯科医療に邁進して林歯科医院に来ていただけるすべての患者様に幸福になってもらえるように頑張っていきたいと考えています。

副院長紹介

医療法人尚志会 林歯科医院 | 副院長

REIKO HAYASHI

一人ひとりの患者様との出会いに感謝しながら

こんにちは、林玲子です!
私達、林歯科医院のHPをご覧下さってありがとうございます。
私が歯科医師を目指したのは、保育園時代にお世話になった歯医者さんに憧れたことがきっかけでした。
その後もずっと歯医者になりたいと思い、勉強を続けた努力が実り、今に至ります。
小児の患者様に関しては「12歳でむし歯なしでキレイな歯並び」を合言葉に、むし歯と不正咬合の予防を中心とした診療をスタッフ一丸となって取り組んでおります。
また成人の患者様には医院のモットーである「自分が受けたい治療、親や子に受けさせたい治療」を達成するため丁寧な治療を心掛けると共に、双子(男子×2)の母親業と診療、各種勉強会のかけもちの経験から、患者様のご都合に合わせた柔軟な対応を心がけております。
お困りのことがございましたら、どうぞお気兼ねなくご相談ください。

略歴

  • ノートルダム清心中学・高等学校 卒業
  • 福岡県立九州歯科大学 卒業
  • 平和道り歯科・口腔外科
  • 広島インプラントセンター(広島市中区) 勤務
  • 平成5年より林歯科医院にて診療に従事

経歴

  • 日本顎咬合学会 咬み合わせ認定医
  • 日本成人矯正学会 歯並びコーディネーター

所属学会

  • 日本咬合学会 会員
  • 日本小児歯科学会 会員
  • 日本顎咬合学会 会員
  • 名古屋臨床小児歯科研究会 会員
  • 日本成人矯正歯科学会 会員
  • 日本ヘルスケア歯科学会 会員
  • 日本Tip Edge矯正研究会 会員
  • 日本歯周病学会

出身地

広島県

血液型

O型

星座

さそり座

患者様に一言

なるべく痛くない麻酔や簡単で効果の高い治療をして「玲子先生でなくっちゃ!!」と言っていただけるよう、全力で頑張っています。どうぞよろしくお願いします。

副院長からの動画メッセージ

スタッフ教育などに
ついての方針

スタッフに関しても、定期的な院内の研修会の外、名古屋や東京などの研修会に参加しています。
インプラント学会認定歯科衛生士等の資格保有者が複数います。